【宮城県山元町の防災・減災と特産を考える日帰りバスツアー】に参加しました!~参加レポ~

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こんにちは。フリーライター。ブロガーのいたまりことイタガキマリコ(@itamari_DB_ar_g
です。

昨年の12月1日、宮城県山元町を舞台にした【防災・減災と特産を考える日帰りバスツアー】に参加しました。とても遅くなってしまいましたが、参加レポートを書きます。



きっかけは河北新報の募集記事

このバスツアーに参加したきっかけは家族が持ってきた河北新報(東北で有名な新聞)の募集記事でした。
そこには山元町の特産と防災・減災を考えるバスツアーというものが載っていて、特産のいちご狩りをしたり、そのいちごでジャムを作ったり。また震災遺構を見学したり、語り部さんの話を聞く等の活動をする、ということが示されていました。

こんなにたくさんのことが出来るのに、なんと料金は一人1000円!料金のことだけではなく、内容にも魅力を感じた私達家族は、相談した結果、このバスツアーに応募することに決めたのです。

応募には全員分の志望動機が必要だった

バスツアーへの応募には、応募者全員分の志望動機が必要でした。私が代表者になり家族それぞれに志望動機を考えてもらい、応募しました。

私の志望動機は、山元町には津波が来ました。しかし、私は山元町がある宮城県に住んでいますが、内陸部のため津波は直接は体験していません。今回のバスツアーで、特産だけではなく、地震と津波について、そしてこれからの防災や減災についてしっかり考えたい。ということを伝えました。

結果、無事に当選通知が届き、私達家族は今回のバスツアーに参加することになったのです。

なんと60人のバスツアーに1500人以上の応募があった!

当選通知が届いてから数日後。家族からとんでもないことを聞きました。なんと、今回のバスツアーは、60人が定員の募集だったのですが、1500人くらいの募集があったのだそうです。

私は応募するとき、実は全員当たってたりしてね、などと冗談で言ってたのですが、それどころではありませんでした。この時、当選してバスツアーに参加できることが、とても幸運なことだと感じました。当日参加すると、その思いがさらに強くなったのです。

いよいよバスツアー当日!

いよいよバスツアー当日。集合場所に行くと、家族連れがズラリ。どうやら当選したのは私たちを含め、家族連れが多かったようです。

当日はこんなに快晴!

いざ大型バスに乗って出発です。

バスの中では、それぞれが軽い自己紹介と、参加理由を話しました。

まず最初は山元町の特産品【いちご狩り】!

まず最初に訪れたのは、【山元いちご農園】。山元町の特産品である、いちご狩りからバスツアーはスタートです。

このいちご農園も、津波でほぼダメになり、その後復活し、数軒のいちご農園の人達が集まり、会社化した、という話を聞きました。

 

 

いちご狩りは、30分間いちごが取り放題、食べ放題です。とにかく大きいいちごがたくさん。そして甘い!付属の練乳を付けなくても余裕で食べれます。それくらいめちゃくちゃ甘いんです!是非、宮城にいらっしゃった時にはいちご狩りもやってみてください!

ちょっとお昼が心配でしたが、心配は杞憂に終わりました💦

ここから、それぞれのバスに数人ずつ語り部さん達が乗り込みました。

次は震災遺構である津波が来た学校へ

次に向かったのは、いわゆる震災遺構と呼ばれている、津波が来た学校です。学校に向かう間に、バスの中で語り部さんからの話を聞きます。

学校に向かう間も、何もなくなってしまった場所や、かさ上げ工事を行っている場所をたくさん通りました。

 

 

その途中で、ある自動車学校の跡を通りました。3月11日。自動車学校にはたくさんの卒業したての若い人達が免許を取るために頑張っていました。そのたくさんの若い人たちと数人の先生が津波の犠牲になってしまったのです。

その場所には慰霊碑がありました。バスの中からでしたので、後ろ側からしか撮れませんでした。

そんな場所をたくさん通り、語り部さんからいろいろな話を聞くうちに、学校に到着しました。

山元町には津波が来た時に、避難した生徒達や先生、地域の方々等が全員助かった学校があります。その学校が、現在震災遺構として公開されているのです。

現在はまだ外からしか見学できませんが、いずれは中も見れるようにするということです。

学校では、当時校長先生を務めていた語り部の方から当時の話をお聞きしました。

上の写真、一番上の階の窓が結構開いていますますよね。そう。ここまで津波が来たのです。

校舎の近くに寄って撮った写真がこちら。

 

反対側に行ってみると、まさに惨状が広がっていました。

 

 

校舎にある階段の上の方に、青い小さな看板があります。青い看板は、最高ここまで津波が来た、という印なのです。つまり、屋根ギリギリまで津波が来たことがわかります。

 

 

他にもコンクリートの柱が根こそぎ倒れていたり、学校の看板が折れて転がっていたり。
記念碑も折れていました。

 

校舎の外もたくさんの物が倒れていましたが、校舎の中はもっと酷いことになっていました。

全てのものが壊れているといっても過言ではありませんでした。鉄の塊が校舎のところに引っかかっていました。

絶句するというのはこういう時のことをいうんだと痛感しました。

当時の校長先生から聞いたお話は、地震後校庭に避難した子供たちもいましたが、校長先生の判断で子供も大人も、全員を屋上に避難させました。

といっても、屋上の形状が独特なため、人が上がる事が出来ません、そのため、屋上のすぐ下にある倉庫に(約90人)全員が入りました。その高さのすぐ目の前まで波が来たり、少し水が入って来たりもしたそうですが、本当にギリギリで全員が助かることができました。

その倉庫で一晩を明かしたこと、トイレの大変さなどの話も伺いました。

そのため、この学校は震災遺構として保存されることが決まりましたが、犠牲者が出た場合は、とても難しくなる、ということもおっしゃっていました。



学校を出て山元町防災センターへ。その間に語り部さんの話を聞く

学校を出ると、次は山元町防災センターへ向かいます。そこではお昼ご飯を食べる予定でした。

防災センターに着くまでに、バスの車内で語り部さんの話を聞きました。

幼稚園、小学生など3人のお子さんが居るお母さん。3月11日の朝、いつもの通り『いってらっしゃい』と見送りました。結局、お子さんは3人とも二度と帰ってきませんでした。

など、涙をこらえるのが大変なほどの悲しい話、でも実際に、現実に起きたことをしっかり聞いてきました。

話を聞いているうちに、防災センターに到着しました。

山元町の防災センターは、大きな建物です。ホールや音楽練習室などがあり、人々が集まれる一つのコミュニティとなっています。さらに防災センターという名前の通り、震災などの災害が起きた時は、一つの大きな避難所となります。

ホールや音楽練習室はもちろん、すべての部屋が避難室になります。普段は入れませんが、裏には消防士さんや消防団、自衛隊の人が本拠地に出来る部屋もありました。

そこには非常電源、すなわち自家発電のシステムもありました。もちろん、山元町には津波が一度来ているので、今回の津波の高さよりも高い建物になっており、津波が来たらとにかく上に逃げる。というのが鉄則だそうです。

防災センターでは、4つのことをしました。1つ目は全員でお昼のお弁当を食べること。2つ目は『幸せの黄色いハンカチプロジェクト』への参加。3つ目はバスに乗った人別に分かれて、いちご狩りで貰ったいちごでいちごジャムづくり。4つ目が防災センターの裏側を含めた設備見学です。

お昼は、はらこ飯のお弁当が配られました。とっても美味しかったです。

お弁当を食べ終わった後、私達は『幸せの黄色いハンカチプロジェクト』に参加するため、黄色いハンカチにメッセージを書きました。

『幸せの黄色いハンカチプロジェクト』は、昔の映画にある『幸せの黄色いハンカチ』を実践しているのです。

全国からの援助への感謝と、元気でいることを発信するために始まったこのプロジェクト。黄色いハンカチに震災で亡くなった人へのメッセージを書き、旗のように紐につなげます。そして時間がたった黄色いハンカチは、神社などで燃やすことで空へと送るのです。

その後、私達は先に見学をすることになりました。表のホールや各部屋だけではなく、裏側の倉庫や、設備、いろいろなものを見学することが出来ました。

例えば、災害時に使えるトイレや、窯になるベンチなどが外にありました。普段はただのマンホール、ただのベンチなんです。災害時ではない普段の時も、不便なく使えるようになっていました。

また、裏にある巨大な倉庫には、たくさんのものが入っていました。たくさんのストーブ、ガソリンを入れるタンク、毛布、乾パンなどの備蓄食料、備蓄するための水。他にも、畳などが置いてありました。

もちろん、研修室などの名目で和室はあるのですが、震災の時の教訓で、たくさんの人が避難所に来たときに、津波等で亡くなる人もたくさんいました。でも、人が居すぎて畳の部屋に入れられない。せめて、亡くなった人を畳の上に寝かせてあげたい。そんな思いで、倉庫に畳を入れた、と館長さんはおっしゃっていました。

その後、時間の関係で、希望する人だけが自家発電装置を見学できることになり、なんと私の息子と私の母、二人だけが見学することになりました。

しばらくして最初に集まった部屋に戻ってきた息子と母は、とても興奮した様子で、笑顔ですごかったね!と話していました。

防災センターの一階では、震災と津波を忘れないように、ということで写真や映像がたくさんありました。津波で大切な人を失った人は見たくない映像だと思いますが、私は映像を見ながら、一生忘れてはいけない、と改めて心に誓ったのでした。

最後に公民館と買い物へ。創作太鼓を見学。そしてサプライズ!

全員がジャム作りも見学も終了し、防災センターを後にしました。

次は公民館に移動し、創作和太鼓を見学します。

山元町では、震災後創作和太鼓のチームが誕生し、活動しているそうです。創作和太鼓というのは、自分達で曲やパフォーマンスを創作し、披露するものです。

実際に見学したチームは、小さい子から大人まで、老若男女が混ざっていました。そしてとても楽しそうに、元気に演奏していました。

その後、サプライズ!ということで、なんとシンガーソングライターである平松愛理さんがミニライブをやってくれました。

『部屋とワイシャツと私』など、数曲を披露してくれました。なんと座った場所の関係で、一番前になってしまった私達家族(笑)

平松さんはとにかく顔が小さくて(笑)凄い声量に驚きました。平松さんは震災後ずっと山元町の支援を行っているのだそうです。

 

こうして日帰りバスツアーは終了した~まとめ~

朝から山元町のあちこちを回ったバスツアーは、こうして幕を閉じました。

今回このバスツアーに参加してとてもよかったと思いました。私は宮城県民ですが、生まれてからずっといわゆる内陸部で暮らしてきました。そしていわゆる津波が来た街に実際に行ったことがなかったのです。

同じ県でも、そういう人もいるんです。だから、一度は津波が来たところに行きたい、忘れないために、伝えるために。そんな風にずっと思っていました。

今回のバスツアーの募集を知ったのはそんな時だったのです。実際に行って見ることで知ることがたくさんありました。というよりも、いくら映像をたくさん見ても、本を読んでも、実際に見るのとは全然違うんだ、ということを実感しました。

これからも、私は震災のこと、津波のことを忘れず、伝えていきます。

河北新報 今できることプロジェクト

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